岸信介元総理は、昭和62年春に体調を崩され、8月7日15時41分、心不全のため、東京医科大学病院にて御近親者ならびに御交際の深かった方々が、なんとか御回復をと見守る中、残念ながら、御逝去された。私も、病室内の後方に立っていたが、滂沱の涙を禁じえなかった。まさに巨星落つであった。
岸信介会長は、その1年ほどまえから、御自身、体調不良を感じられたのか、ある日、私が呼ばれて、日本石油本館三階の岸事務所へ参上し、お目にかかると、突然「君に実務担当してもらっている4団体について、後継会長を決めておきたいので、来てもらったのだ」とおっしゃる。私はびっくりして、「いえ、お元気でいらっしゃいますのに、なにをおっしゃられますか」と申し上げると、岸信介先生は「いや、私はやがて90歳を迎えるから、後任を決めておきたい。私も元気なうちは会長を続けるつもりだが・・・・。だが、君もそういうなら、会長代行ということにしよう。君は、後任会長に、だれがよいと思うかね」とおっしゃる。
そこで、私は「いえ、後任会長というようなトップ人事は、私あたりが、お名前を拳げるわけにはいきません。それは、先生御自身でお考え下さい」と申し上げた。すると、岸先生は呵々大笑されて「分かった。では、ひとり言としよう」と言われ、しばらく考えられたあと、「財団法人 協和協会は、これは、福田(赳夫)君が一番よいだろう。私から、福田君にお願いしよう。
しかし、問題は、自主憲法など三団体の方だな。憲法改正は福田君はあまり熱心でないからな。総理経験者に改憲に熱心なのは、う〜ん、おらんな。すると、議長経験者の中から選ぶか。するとなんだな。この7月に参議院議長を退任する木村睦男君が憲法改正に熱心だから、あとの3団体は、私から、木村君にお願いしよう」とおっしゃった。私は、岸信介先生の、各団体を思うお気持ちにふれ、感動した。
岸先生は、その数日後、木村睦男参議院議長を招かれて、岸信介先生創立にかかる3団体の会長代行を委嘱され、木村睦男先生も快諾された、と承った。そこで、私は、参議院議長公邸に木村睦男議長をお訪ねし、書いていただきたのが、上の色紙である。
そして、木村睦男先生は、議長を任期満了で退任されると同時に、岸先生の会長代行として、活動を始められた。そして翌昭和62年8月7日に岸信介先生の御逝去に伴い、自動的に、岸信介先生創設の3団体の会長となられ、以後、平成13年12月7日逝去されるまで、熱心にこの三団体を統率・指導をして下さった。
その3団体とは、創立の古い順から掲げると、まず、「自主憲法期成議員同盟」である。この団体は、昭和30年7月11日に結成されている。その経緯を挙げると、この昭和30年初頭、当時の左派社会党と右派社会党が合同するとのニュースがあった。この情報により、危機感を持ったのは、当時の自由党の緒方竹虎総裁と大野伴睦幹事長であり、また、民主党の鳩山一郎党首と三木武吉総務会長、そして岸信介幹事長であった。けだし、もし、左派社会党と右派社会党が合同すれば、保革伯仲時代、社会党に政権を取られてしまうことを憂えたからである。そこで、緒方、大野、三木、岸の4者が秘かに会談を持ち、左右社会党が合同する前に、保守合同を実現することを申し合わせたのである。
初めは、自由党と民主党の政策協定を考えたが、両党は長年、血で血を洗う政争を繰り返してきたので、早急には行かないと判断し、両党の中を見渡したところ、両党の中に、憲法改正の議員会派があって、これには大した差はないことが分かり、まず、この両党の改憲議員会派が合同したのが7月11日で、名称を「自主憲法期成議員同盟」とした。そして、この議員同盟メンバーが、協力し合い、4ヶ月後の昭和30年11月15日、自由民主党が結成されたのである。したがって、自由民主党は「自主憲法制定」を立党の精神として掲げ、その実現に働いた「自主憲法期成議員同盟」のメンバーは大層誇りとした。この議員同盟の会長は数代を経て、岸信介元総理が会長を務めておられた。
いま一つの団体は、時はなお保革伯仲時代で、憲法改正には第96条で衆参各議院の総議員の3分の2以上の多数を要するため、「自主憲法制定」を立党の精神としながら、自民党政権はなかなか改憲を実現できず、そこで、世論を起こすために、民間の協力を得る必要を感じ、昭和44年に80数団体の参加を得て結成されたのが、「自主憲法制定国民会議」である。そして、岸信介元総理は、その初代会長に就任したのである。
そして、3つ目の団体が、昭和56年に、岸信介元総理会長で創設された「時代を刷新する会」である。ともかく、当「時代を刷新する会」第2代会長・木村睦男元参議院議長は、岸信介元総理を尊敬しておられただけに、以上の3団体を、本当に誠心誠意、平成13年12月7日逝去されるまで、護って下さった。心から感謝申し上げている。
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